私はスポッチャにいた。
出来もしないバレー、サッカーを同居人としていた。セグウェイに乗ってSMAPも乗ってたっけなぁなんて考えていた。
帰り、レジに行く前にふとスマホを見たら母からLINEが届いていてそこに「おばあちゃんが旅立ちました」と書いてあった。
孫バカなのはわかってるんだけど私のおばあちゃん、絶対天国にいるよ。本当だよ。でもそもそも天国ってなんだろうね。おばあちゃんに教えてほしい。やっぱり天国って人間が考えたものなのかな。それとも極楽?みたいな…そんな場所があるのかな。まぁ、いいか。
最後におばあちゃんに会ったのはここにも書いたように2日前くらいのこと。結局ブログに散々書き散らした「明日が来なければいい」という不毛な願いは叶わなかったみたいです。
明日も明後日も今日になっていって、いつのまにかおばあちゃんがこの世界こどこを探してもいないような…そんな世界になっちゃった。
最初、全然わからなくて。おとといには最後かもと思っていたけれどまさか本当に最後になっちゃうなんて。
おなじみの「今夜は峠です」も「最後のお別れを…」もなかった。すごくさらっとしてた。
けど、おばあちゃんは私が行った時にはもう息をするのにも精一杯みたいな状況だったから。あぁ、でも。うーん。そうかー…って感じ。
人が命をなくすのに立ち会ったことがない自分は創作物や想像でしか生きるとか死ぬを知らなくて、もちろん心が強いわけではないから死にたい消えたいなんてことを考える時期が思春期にはあったんだけど、本当に「死にたい」と思った先の、向こう側をみた心地だった。
生きると死ぬの間ってこういう事なんだぞっていうか。簡単に死ぬなんてことを口にすることがどれ程のことかっていうか…。
生きるって、綺麗じゃなくて。息をしたり排泄をしたり、何か表現しようとしたり。その全てが綺麗なもので構成されてるわけはもちろんないじゃないですか。
死ぬと生きるの間にいると尚更そうで、例えば肌の細胞の感じとか毛穴の感じとか産毛だとか。口の端が切れていたり身体中に痣があったり、管が通っていたり苦しんでたり。笑うことすらままならなくなったり。
それでも生きるって、こういうことなんだと思った。おばあちゃんは一生懸命に生きていて、私ももっと生きないとと思った。泥臭くても綺麗じゃなくても、ただ命を全うすることに意味があるんだって。
今回、おばあちゃんが病気になって。大きな病院にお見舞いに行ったり一緒に話を聞いたり、話を聞いたりそばにいたりして。その大きな病院で同世代の難病と闘う子と友達になったりして。命について考える事が増えた。私の中で大きな出来事だった。
なんだかまとまらなくなっちゃったけど、最後におばあちゃんに会った後飛行機の中でこの気持ちは残さないとと思って走り書きした、終わりのないメモを置いていきます。
ベッドでおばあちゃんは強く私と母の手を握ってた。
最後私が帰らなきゃいけないと母が伝えると強く手を握ってくれて、私も思わず泣いてしまった。離れたくなかった。多分もう会えないってお互いわかってしまっていたから。もうおばあちゃんは言葉が話せない。でも、私の気持ちも伝わっただろう。おばあちゃんの気持ちも伝わってきた。一度手を離そうとしたら何度も追いかけるようにして繋ぎなおそうとして。思わず掴んだ。掴んで、思わず泣いていた。
大好きだとまた会おうと告げた。離れてても心は繋がってるよねって。それでもまた手は追いかけて来た。私も離れたくなかった。本当は離れたくなかった。それでも離れないといけない、母が告げた。この子もお仕事を頑張ってるんだよ。だから行かないといけないんだよ。って。そうしたら一度離れて、それでも手は動いていて、